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歴史の異説 / 真田幸村

真田幸村は豊臣秀頼と薩摩へ逃れた

落城する大坂城から、若き主君を連れて南へ。日本一の兵は、まだ戦いを終えていなかったのかもしれません。

Since:江戸時代〜Evidence:3

1615年、大坂夏の陣。真田幸村(信繁)は、徳川家康の本陣に向けて決死の突撃を敢行しました。家康をあと一歩まで追い詰めたとも言われるその戦いぶりは、敵方からも「日本一の兵」と称えられたと伝えられます。しかし奮戦むなしく幸村は討ち死にし、翌日には大坂城も炎に包まれ、豊臣秀頼は母の淀殿とともに自害したとされています。

ところが戦のあと、京の町ではある歌がはやったと伝えられています。その内容は、真田が秀頼を連れて鹿児島へ落ち延びた、というもの。人々の口から口へ、豊臣家は滅んでいない、という噂が広がっていったのです。天下人となった徳川の世にあって、こうした歌が口ずさまれていたこと自体、ただごとではありません。

しかも、薩摩の島津家は関ヶ原で西軍についた大名です。豊臣家に恩義を感じる者たちが、南の果てで主君をかくまったとしても不思議ではありません。実際に鹿児島県内には、秀頼や幸村の墓と伝わる場所があるとされます。南の果てで静かに余生を送る元天下人の息子。想像するだけで、胸がざわつく光景です。

幸村には影武者が何人もいたという話も残っています。戦場で討たれたのは、本当に本人だったのか。首実検をした者たちは、本物の顔を見分けられたのか。燃え落ちる大坂城から、二つの影が南へ向かっていく光景を、あなたは想像できるでしょうか。

  • 京ではやったわらべ歌

    大坂の陣のあと、秀頼が真田に連れられて鹿児島へ退いた、という意味の歌がはやったと伝えられています。庶民の間で生存説が早くから語られていたことを示す話として有名です。

  • 鹿児島に残る

    鹿児島県内には、秀頼の墓、幸村の墓と伝わる場所があるとされます。地元の伝承として語り継がれており、信じる人にとっては逃避行の終着点です。

  • 影武者の存在

    幸村には複数の影武者がいたという話が講談などで語られてきました。討ち取られたのが本人だったのか、という疑いが生存説の土台になっています。

史料では、幸村は大坂夏の陣で越前松平家の家臣・西尾宗次に討ち取られたとされ、秀頼は大坂城内で淀殿とともに自害したと考えられています。薩摩に逃れたことを示す確かな史料は見つかっておらず、秀頼の最期についても、落城の混乱の中で遺体の確認が難しかったとされる点が、生存説の余地を残しました。歴史学では生存説は伝承の一つとして扱われています。

豊臣家の滅亡後、庶民の間では判官びいきのように敗者へ同情する気持ちが強く、生存説はそうした心情の中で広まったとされます。のちの講談や小説で幸村と「真田十勇士」の物語が人気を集めたことも、伝説を大きく育てました。

ちなみに、「幸村」という名前は、本人が書いた手紙などの確かな史料には見られず、本名は「信繁」とされています。「幸村」は江戸時代の軍記物などを通じて広まった呼び名と考えられていますが、今ではこちらのほうがすっかり有名になっています。

さて、あなたはどちらを信じますか。この噂、誰かに話したくなったら