赤城山に徳川の埋蔵金が眠っている
江戸城の明け渡し、空っぽだった金蔵。幕府の莫大な御用金は、いったいどこへ消えたのでしょうか。
噂の内容
1868年、江戸城は戦うことなく新政府軍に明け渡されました。いわゆる無血開城です。ところが、城に乗り込んだ新政府側が幕府の金蔵を開けてみると、そこにあるはずの大金がなかった、と言われています。260年以上続いた徳川の財宝は、どこへ行ったのか。その額は数百万両とも噂されました。
疑いの目が向けられたのが、幕府の勘定奉行などを務めた切れ者、小栗上野介忠順です。小栗は幕府の財政に深く通じていた人物で、江戸を離れて領地のあった上野国(現在の群馬県)の村へ移り住みました。そしてほどなく、新政府軍に捕らえられ、取り調べらしい取り調べもないまま処刑されてしまいます。
口封じだったのではないか。小栗は御用金を群馬の山中、赤城山に隠したのではないか。噂はやがて伝説となり、明治以降、埋蔵金を探して赤城山を掘り続ける人々が現れます。親子三代にわたって発掘に人生を捧げた一家もあったと伝えられています。
平成に入ると、テレビ番組が重機を投入した大規模な発掘を行い、日本中が画面にくぎづけになりました。掘っても掘っても、あと少しで出てきそう。この「あと少し」こそが、埋蔵金伝説の最大の魔力なのかもしれません。今も、どこかでスコップを握る人がいるはずです。
ささやかれる証拠
空っぽだった金蔵
江戸城の金蔵に、期待されたほどの金がなかったという話が伝わっています。巨大な政権の財産が消えたのなら、どこかに運び出されたはずだ、というのが出発点です。
小栗忠順の群馬行き
財政の中枢にいた小栗が、江戸を離れて群馬へ移ったこと自体が怪しい、と見る人がいます。赤城山もまた群馬県にあり、点と点が線でつながって見えるのです。
あまりに早い処刑
小栗は新政府軍に捕らえられ、ほどなく処刑されました。財宝の在りかを知る人物を急いで消したのでは、という想像が、伝説に一層の凄みを与えています。
発掘で出てきた品々
赤城山周辺の発掘では、古い道具や遺物が見つかったという話がたびたび語られます。決定的な証拠ではなくても、掘る人の期待をつなぎとめるには十分でした。
表向きの説明
幕末の幕府は、開港にともなう経済の混乱や、軍備の近代化、長州征討などの出費によって、財政がかなり苦しかったとされています。そのため、金蔵に金が乏しかったのは隠したからではなく、すでに使い果たしていたためだ、と考える研究者は少なくありません。
小栗が群馬へ移ったのは、罷免されたあと領地の村で暮らそうとしたためとされ、埋蔵金との関わりを示す確かな史料は見つかっていません。テレビ番組による大規模な発掘でも、埋蔵金は発見されませんでした。とはいえ「絶対にない」と証明することもまた難しく、伝説は今も静かに山に眠り続けています。
ちなみに、小栗忠順は幕府の遣米使節の一員としてアメリカへ渡り、帰国後は横須賀に造船所をつくる計画を進めた人物です。この造船所はのちの日本海軍を支える拠点となり、日露戦争後、東郷平八郎が小栗の遺族に礼を述べたとも伝えられています。埋蔵金よりも大きな遺産を残した、と言えるかもしれません。
さて、あなたはどちらを信じますか。この噂、誰かに話したくなったら