文字
歴史の異説 / 織田信長

織田信長は本能寺で死ななかった

炎に包まれた京都・本能寺。焼け跡から、天下人の遺体はついに見つからなかったと言われています。

Since:近代〜Evidence:3

1582年、京都・本能寺。わずかな供回りで宿泊していた織田信長を、明智光秀の大軍が取り囲みました。夜明け前の奇襲です。信長は自ら弓や槍を取って戦い、やがて奥へ下がって火を放ち、自害したとされています。天下統一を目前にした男の、あまりに突然の幕切れでした。享年49とされます。人間五十年、と好んで舞ったという「敦盛」の一節を、地で行くような最期でした。

ところが、焼け落ちた寺の跡から、信長の遺体は見つからなかったと言われています。光秀は必死に探させたとも伝えられますが、首も骨も出てこない。これほどの大物の最期に、決定的な「証拠」がないのです。そこから、ある疑いが生まれました。信長は、本当にあの炎の中で死んだのでしょうか。

信じる人々はこう考えます。用心深い信長のこと、宿所には万一のための抜け道が用意されていたのではないか。本能寺は寺でありながら、堀や石垣を備えた城のような構えだったとも言われます。煙に紛れて寺を抜け出し、どこかで息をひそめていたとしたら。天下布武を掲げた男が、そう簡単に炎に屈するとは思えない、というわけです。

本能寺の変の直後から、信長の遺骨を持ち出したという寺の伝承が京都や静岡などに残っています。燃え盛る炎の向こうで、いったい何が起きていたのか。あの夜の真相は、今も煙の奥に隠れたままです。

  • 遺体が見つからない

    本能寺の焼け跡から信長の遺体が見つからなかったとされる点が、生存説の出発点です。首が確認されなかったことで、光秀も信長の死を世間に証明できなかったと言われます。

  • 城のような寺

    当時の本能寺は、堀や石垣をめぐらせた防御性の高い構えだったとされます。守りを固めた場所なら、脱出路もあったのでは、と想像が広がります。

  • 各地に残る墓と遺骨伝承

    京都の阿弥陀寺には、住職が信長の遺骨を持ち帰って葬ったという伝承があります。ほかにも信長の首を葬ったとされる場所が各地にあり、「本当の最期」をめぐる物語は一つではありません。

信長の家臣だった太田牛一の『信長公記』などには、信長が奮戦したのち奥へ退き、自害したと記されています。遺体が見つからなかったのは、寺が激しく燃えたためと考えられています。当時の本能寺は大規模な火災に見舞われており、遺体の判別は難しかったとみられます。信長がその後どこかで生きていたことを示す同時代の記録は見つかっていません。

本能寺の変の十数日後、光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、天下の行方は大きく変わりました。遺体が見つからなかったという事実が、後世の人々の想像をかき立て、小説やドラマでも繰り返し「信長生存」の物語が描かれてきました。

ちなみに、遺体のないまま行われた信長の葬儀では、秀吉が香木で信長の木像を二体作らせ、そのうち一体を遺体の代わりに火葬したと伝えられています。京都・大徳寺で営まれたこの盛大な葬儀は、秀吉が信長の後継者であることを世に示す舞台にもなったとされます。

さて、あなたはどちらを信じますか。この噂、誰かに話したくなったら