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歴史の異説 / 菅原道真

菅原道真の祟りが都を襲った

学問の神様として親しまれる天神様。かつて彼は、日本最強の怨霊として恐れられていました。

Since:平安時代〜Evidence:3

平安時代、学者の家に生まれながら右大臣にまで上りつめた天才がいました。菅原道真です。ところが901年、道真は突然、遠く九州の大宰府へ左遷されてしまいます。背後には、ライバルだった左大臣・藤原時平の策謀があったと言われます。道真は失意のうちに、2年後、大宰府で亡くなりました。無実を訴えながら、ついに都へ戻ることはかなわなかったとされます。

異変が起きたのは、それからです。909年、時平が39歳の若さで急死します。その後も時平の関係者や、左遷に関わったとされる人々が次々と世を去り、皇太子までもが相次いで亡くなりました。都の人々は、ささやき合います。これは道真の怨霊のしわざではないか、と。都では疫病や日照りも続き、不安はますます募っていきました。

そして930年、決定的な事件が起きます。天皇が政務を行う清涼殿に雷が落ち、居合わせた貴族たちが命を落としたのです。醍醐天皇はこの衝撃で体調を崩し、ほどなく亡くなったと伝えられます。

雷を操り、都を恐怖に陥れる怨霊。人々は、どうすれば道真の怒りを鎮められるのか、必死に考えることになります。恐怖は、やがて信仰へと姿を変えていくのです。そしてその信仰は、1000年以上たった今も続いています。

  • 政敵・時平の急死

    道真を追い落としたとされる藤原時平が、道真の死から数年後に39歳で亡くなりました。首謀者とされる人物の早すぎる死が、祟りの始まりとして語られます。

  • 清涼殿への落雷

    930年、宮中の清涼殿に雷が落ち、死傷者が出たとされます。天皇の住まいが雷に襲われた衝撃は大きく、道真が雷神になったという信仰につながりました。

  • 皇太子の相次ぐ死

    醍醐天皇の皇太子、さらにその子で次に皇太子となった王までもが、若くして相次いで亡くなりました。皇室を襲った不幸が、祟りへの恐れを決定的なものにしたと言われます。

道真の死後に起きた一連の死や災害は、当時の史料にも記録されています。平安時代には、非業の死を遂げた人物の霊が災いをもたらすという「御霊信仰」が広く信じられており、朝廷は道真の左遷を取り消し、位を贈るなどして霊を鎮めようとしたとされます。死後およそ90年たってからは、太政大臣の位まで贈られました。

やがて道真は京都の北野の地に祀られ、北野天満宮の起こりとなりました。時代が下るにつれて、怨霊としての道真よりも、優れた学者としての姿が重んじられるようになり、現在のように学問の神様として広く信仰されるようになったと考えられています。

ちなみに、天満宮の境内でよく見かける牛の像は、道真と牛との深い縁に由来するとされます。道真の亡骸を運んでいた牛が途中で動かなくなり、その場所に葬られたという言い伝えがあり、そこに建てられたのが太宰府天満宮だと伝えられています。

さて、あなたはどちらを信じますか。この噂、誰かに話したくなったら