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歴史の異説 / 崇徳上皇

崇徳上皇は、日本の大魔縁になると誓って世を去った

平将門、菅原道真と並んで「日本三大怨霊」に数えられる崇徳上皇。流された讃岐の地で、彼は自らの血で呪いの言葉を書いたと伝えられています。

Since:平安時代末〜Evidence:4

平安時代の終わり、崇徳上皇は天皇の位を退いたあとも、政治の実権を握ることはできませんでした。皇位をめぐる争いはやがて武士を巻き込み、1156年、都を舞台にした「保元の乱」へと発展します。戦いに敗れた崇徳上皇は捕らえられ、遠く讃岐の国(いまの香川県)へ流されることになりました。

讃岐での日々の中で、上皇は戦で命を落とした人々の供養と、都へ帰りたいという願いを込めて、長い経典を何年もかけて書き写したとされます。そして完成した写本を、せめて都の寺に納めてほしいと送りました。ところが朝廷は、呪いが込められているのではないかと疑い、写本を受け取らずに送り返してしまった、と伝えられています。

これに激しく怒った上皇は、舌をかみ切り、流れる血で写本に誓いの言葉を書きつけたと言われます。「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」。それからの上皇は、髪も爪も伸ばし放題にし、生きながら天狗のような姿になっていったと語り継がれています。

上皇は1164年、讃岐の地で亡くなりました。都へ戻る願いは、ついにかなわなかったのです。その後、都では大火や争乱が続き、上皇に関わった人々の身にも不幸が重なったとされます。人々は、讃岐で果てた上皇の怨念が都に襲いかかっているのだと、恐れおののきました。

  • 都を襲った大火と争乱

    上皇が亡くなってから十数年のあいだに、京都では大きな火事が起き、延暦寺の僧兵が都に押し寄せる騒ぎも続いたとされます。こうした災いが、崇徳上皇の怨霊のしわざとして語られるようになりました。

  • 貴族から武士の世へ

    上皇の誓いの言葉は「天皇を民の位に落とし、民を天皇の位に就ける」という意味だとされます。上皇の死後、平氏や源氏が力を伸ばし、やがて武士が政治の中心に立つ時代が来たことが、この呪いが現実になった証拠だと語られてきました。

  • 改められた呼び名

    上皇はもともと流された土地の名から「讃岐院」と呼ばれていましたが、死後しばらくして朝廷が「崇徳院」という名を贈ったとされます。怨霊を鎮めるために、あらためて手厚く扱おうとしたのだと考えられています。

  • 明治の始まりに迎えられた御霊

    明治天皇が即位する際、讃岐から崇徳上皇の御霊を京都へ迎え、新たに神社を建てて祀ったとされます。700年以上たっても、上皇の霊は国の大事の前に鎮めておくべき存在と考えられていたのです。

舌をかみ切って血で誓いを書いた話や、天狗のような姿になった話は、鎌倉時代ごろにまとめられた軍記物語『保元物語』などに描かれたもので、物語として脚色された部分が大きいと考えられています。当時の確かな記録から、そのまま事実として確かめられるものではないとされます。

上皇の死後に起きた火事や争乱は、平安時代末の政治の混乱や社会の変化の中で起きた出来事として説明されます。それでも、非業の死を遂げた人の霊を鎮めようとする「御霊信仰」が根強かった時代には、こうした出来事が崇徳上皇の怨霊と結びつけて受け止められ、朝廷も鎮魂に力を注いだとされます。明治時代に京都に建てられた白峯神宮は、現在では球技やスポーツの上達を願う人々も訪れる神社として知られています。

ちなみに、江戸時代の上田秋成による怪異小説集『雨月物語』の最初の話「白峯」は、歌人の西行が讃岐にある崇徳上皇の墓を訪ね、怨霊となった上皇と語り合う物語です。上皇の墓所とされる白峯陵は、いまも香川県坂出市の山中にあります。

さて、あなたはどちらを信じますか。この噂、誰かに話したくなったら