東洲斎写楽の正体は、あの有名絵師だった
わずか10か月ほどで140点以上の傑作を残し、忽然と消えた絵師。写楽とは、いったい誰だったのでしょうか。
噂の内容
1794年、江戸の町に衝撃的な役者絵が並びました。大きく誇張された顔、ぎょろりとした目、ぐっと結ばれた口元。描いたのは、それまで誰も聞いたことのない絵師、東洲斎写楽です。版元は、喜多川歌麿を世に出した名プロデューサー、蔦屋重三郎でした。しかもデビュー作は、背景に黒雲母を刷り込んだ豪華な大判の揃いものだったとされます。無名の新人としては、異例の大抜擢です。
写楽はそれから約10か月の間に140点以上とも言われる作品を次々と発表します。ところが、ある時を境にぷっつりと筆を絶ち、二度と姿を現しませんでした。どこで生まれ、どこで学び、どこへ消えたのか。本人についての記録は、驚くほど少ないのです。作風も時期によって大きく変わり、後期の作品は初期ほどの迫力がないとも評されます。
無名の新人が、いきなりこれほど完成された絵を描けるものだろうか。そう考えた人々は、写楽の正体探しに夢中になりました。葛飾北斎だったのでは。喜多川歌麿だったのでは。いや、仕掛け人の蔦屋重三郎本人では。候補に挙がった人物は、数十人にのぼるとも言われます。
名前を隠し、別の顔で描いた天才がいたのだとしたら。写楽の役者絵の鋭い目は、正体を探す私たちを、どこかで笑って見ているのかもしれません。
ささやかれる証拠
あまりに
短い 活動期間 写楽の活動はおよそ10か月とされ、その後の消息がわかっていません。一瞬だけ現れて消えた点が、別人の変名ではないかという疑いを生みました。
新人離れした
完成度 デビュー作から大判の豪華な役者絵が一挙に出版されたとされます。無名の絵師にしては待遇が破格すぎる、という点が正体説を後押ししています。
候補者が
大物ぞろい 北斎、歌麿、円山応挙、蔦屋重三郎など、名だたる人物が候補に挙げられてきました。誰の名前を当てはめても物語になるのが、この謎の面白さです。
表向きの説明
江戸時代後期の斎藤月岑による『増補浮世絵類考』には、写楽は阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛であるという記述があるとされます。近年の研究では、寺の過去帳などから十郎兵衛が実在した人物であることが確かめられたとされ、現在では、この説が最も有力と考えられています。
ただし、能役者がなぜ浮世絵を描いたのか、なぜ短期間でやめたのかといった点には、今も不明なことが残っています。写楽の作品は明治以降、海外で高く評価されたことをきっかけに日本でも改めて注目され、正体をめぐる議論が盛んになったと言われます。謎が完全に解けたとは言い切れないのが、写楽の奥深さです。
ちなみに、写楽の名を世界に広めたきっかけの一つは、1910年にドイツの研究者ユリウス・クルトが著した写楽の研究書だとされます。その中で写楽は、西洋の大肖像画家と並べて論じられたと言われ、この評価が逆輸入される形で、日本でも写楽の人気が高まったと伝えられています。
さて、あなたはどちらを信じますか。この噂、誰かに話したくなったら