明智光秀は生き延びて、僧侶・天海になった
徳川三代に仕えた謎の怪僧。その正体は、信長を討ったあの男だったのかもしれません。
噂の内容
1582年、本能寺の変。主君・織田信長を討った明智光秀は、わずか十数日後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れます。敗走の途中、京都郊外の小栗栖で落ち武者狩りに遭い、命を落とした。これが通説です。しかし、その首は本当に光秀のものだったのでしょうか。首を見届けた者の証言は、意外なほどあいまいだとも言われます。
それから時が流れた江戸時代の初め。徳川家康のそばに、一人の老僧がいました。名は南光坊天海。家康の厚い信頼を受け、秀忠、家光と三代の将軍に仕え、江戸の町づくりや日光東照宮の造営にも深く関わったとされる人物です。ところがこの天海、前半生がほとんどわかっていないのです。
どこで生まれ、若いころ何をしていたのか。記録が乏しいまま、ある日突然、天下人の相談役として歴史に現れる。そして100歳を超える長寿を保ったとも伝えられます。これほどの大物の過去が、なぜ空白なのか。そこで囁かれ始めたのが「天海の正体は光秀だった」という説です。
家康はかつての敵を、なぜそばに置いたのか。信じる人々は言います。信長亡きあと天下を狙った家康にとって、本能寺の変はむしろ好都合だったのではないか、と。歴史の裏で、二人は手を結んでいたのかもしれません。
ささやかれる証拠
空白だらけの
前半生 天海は歴史に登場するまでの経歴がはっきりせず、生年にも諸説あります。天下人の側近という大物にしては謎が多すぎる、という点が説の出発点です。
日光の
「明智平」 日光のいろは坂の近くに「明智平」という地名があります。天海が「明智の名を残すため」に名づけた、という言い伝えがあり、信じる人の間では有名な状況証拠です。
春日局との
不思議な 縁 三代将軍家光の乳母・春日局は、光秀の重臣だった斎藤利三の娘です。謀反人の家臣の娘が将軍家の中枢に入った裏には、天海の後押しがあったのでは、と語られます。
将軍の
名に 潜む 「光」と 「秀」 二代秀忠の「秀」と、三代家光の「光」。並べると「光秀」になる、というのも信奉者がよく挙げるポイントです。偶然と見るか、暗号と見るか。
首の
確認が あいまい 光秀の首は発見時に傷みが激しく、本人かどうかの確認が難しかったとも言われます。生存説が生まれる余地は、最初からあったのです。
表向きの説明
天海の出自については、江戸時代に編まれた伝記などで、陸奥国(現在の福島県会津地方)の出身で、蘆名氏の一族とする説が伝えられています。若いころに比叡山などで修行したとされ、光秀の生年とされる年代とも一致しないため、同一人物とみる確かな史料は見つかっていません。
明智平の地名の由来や、将軍の名前の一致などは、いずれも状況証拠や後世の言い伝えにとどまり、歴史学では支持されていない説です。ただし天海の前半生に不明な点が多いのは事実で、その空白が人々の想像力をかき立て、ロマンあふれる異説として今も愛され続けています。
ちなみに、天海は家康の死後、家康をどんな神として祀るかをめぐって、同じく家康の側近だった僧・金地院崇伝と論争になったとされます。結果は天海の主張が通り、家康は「東照大権現」として日光に祀られることになりました。東京・上野の寛永寺を開いたのも天海です。
さて、あなたはどちらを信じますか。この噂、誰かに話したくなったら