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歴史の異説 / 聖徳太子

聖徳太子は実在しなかった

10人の話を一度に聞き分けた天才。お札の顔にもなったあの偉人は、本当にこの世にいたのでしょうか。

Since:1990年代〜Evidence:4

冠位十二階を定め、十七条の憲法をつくり、遣隋使を送り、法隆寺を建てた。日本の古代史で、聖徳太子ほど輝かしい功績を持つ人物はいません。一万円札をはじめ、何度もお札の肖像に選ばれてきた、まさに国民的な偉人です。日本人なら誰もが一度は、その名を教わってきました。

ところが、その伝記を読むと首をかしげたくなる話が次々と出てきます。母が馬小屋の前で産気づいて生まれた。10人が同時に訴えても、すべて聞き分けて的確に答えた。未来を予言した。まるで神話の英雄か、聖人伝説のようです。これが本当に、実在の人間の記録なのでしょうか。

1990年代の終わりごろ、ある歴史学者が「聖徳太子という人物像は、のちの時代に作り上げられたものではないか」という趣旨の説を唱え、大きな話題となりました。主な出典である『日本書紀』が完成したのは720年。太子が亡くなってから約100年後のことです。その間に、何が書き加えられたのか。書き手の側には、国の成り立ちを立派に見せたい事情もあったはずです。

私たちが教科書で習ったあの偉人は、実は誰かが理想を詰め込んで描いた「作品」だったのかもしれない。そう考えると、あの有名な肖像画さえ、少し違って見えてきませんか。偉人の正体をめぐる論争は、今も決着していません。

  • 人すぎる逸話

    一度に10人の訴えを聞き分けた、などの逸話は、人間離れしすぎていると感じる人が多いでしょう。馬小屋の前で生まれたという話は、キリストの誕生物語に似ているとも指摘されます。

  • 史料が100年後のもの

    太子の事績を伝える『日本書紀』は、没後約100年たってから完成しました。編纂した側の都合で、人物像が理想化された可能性があると考える人がいます。

  • 十七条憲法の言葉づかい

    十七条の憲法には、太子の時代にはまだなかったとされる言葉が使われている、という指摘が戦前からありました。本当に太子の時代に書かれたのか、疑問の声があるのです。

  • 中国の記録との食い違い

    中国の歴史書『隋書』には、倭の王からの使いについての記述がありますが、その王は男性のように書かれています。当時の天皇は女性の推古天皇。では、この王は誰なのか、という謎があります。

聖徳太子のモデルとなった皇族、厩戸王(うまやとおう)が実在したことは、多くの研究者がほぼ確実と考えています。「聖徳太子」はのちに贈られた呼び名とされ、議論の中心は「いたかどうか」よりも、伝えられる逸話や功績のうち、どこまでが本人のものかという点にあります。

超人的な逸話の多くは、後世に信仰が高まる中で脚色されたものと考えられています。一方で、十七条の憲法や各種の功績が太子本人によるものかについては、今も研究者の間で意見が分かれています。近年の教科書では「厩戸王」という名前が併記されることもあり、偉人像の見直しは現在進行形のテーマです。

ちなみに、2017年には文部科学省が学習指導要領の改訂案で、小中学校の表記を「厩戸王」中心に改める方針を示しましたが、意見公募で反対の声が多く寄せられ、「聖徳太子」の表記に戻したという経緯があります。1400年前の人物の呼び名が、現代の社会で議論になる。それだけ太子は、今も身近な存在なのです。

さて、あなたはどちらを信じますか。この噂、誰かに話したくなったら