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歴史の異説 / 徐福

不老不死の薬を求めた徐福は、日本にたどり着いていた

秦の始皇帝の命を受け、東の海へ漕ぎ出した一団。彼らが二度と戻らなかった先は、日本だったのかもしれません。

Since:紀元前3世紀〜Evidence:4

中国を初めて統一した秦の始皇帝。天下のすべてを手に入れた皇帝が、最後に求めたものは、死なない体でした。そこへ一人の男が申し出ます。東の海のかなたに、仙人の住む神山がある。そこへ行けば、不老不死の薬が手に入るかもしれない、と。男の名は徐福。方士と呼ばれる、神仙の術に通じた人物だったとされます。

司馬遷の『史記』によれば、徐福は大勢の若い男女や、さまざまな技術を持つ者、五穀の種などを船に積み込み、東の海へ旅立ったと伝えられます。その数は数千人にのぼったとも言われます。そして、広い平野と湿地のある土地にたどり着き、そこで王となって、二度と戻らなかったというのです。

では、その土地とはどこだったのか。東の海の向こうにある、広い平野のある島。多くの人が思い浮かべるのが、日本です。実際、日本の各地には、徐福がこの地に上陸した、という言い伝えが残っています。和歌山、三重、佐賀、鹿児島、山梨。遠く離れた土地に、なぜ同じ人物の伝説があるのでしょうか。

徐福が連れてきた人々が、稲作や新しい技術を伝えたのではないか、と想像する人もいます。不老不死の薬は見つからなかったのかもしれません。けれども、海を渡った人々の血と技は、この国のどこかに受け継がれているのかもしれないのです。

  • 『史記』に残る航海

    中国の正史『史記』には、徐福が始皇帝の命で東の海へ船出し、戻らなかったことが記されているとされます。伝説の人物ではなく、歴史書に名前が残る人物であることが、この話の重みになっています。

  • 日本各地に残る上陸伝説

    和歌山県新宮市には徐福の墓と伝わるものがあり、佐賀県や三重県熊野市など、ほかにも徐福ゆかりとされる場所が各地にあります。遠く離れた地域に同じ伝説があることが、不思議さをかき立てます。

  • 持ち込まれた種と技術

    『史記』には、五穀の種や多くの技術者を連れていったとも記されているとされます。日本に新しい文化をもたらしたのは徐福の一団だったのでは、という想像につながっています。

  • 中国側にも残る日本説

    中国でも、のちの時代の書物や詩の中で、徐福が日本にたどり着いたとする話が語られるようになったとされます。海の向こうからも、同じ方角が指さされていたわけです。

徐福が東の海へ船出したことは『史記』に記されていますが、どこにたどり着いたのかは書かれておらず、日本に来たことを示す考古学的な証拠も見つかっていません。『史記』の記述そのものについても、どこまでが事実なのかは慎重に見る必要があるとされます。

日本各地の徐福伝説は、中国から伝わった徐福の話が、のちの時代にそれぞれの土地の由来や信仰と結びついて生まれたものと考えられています。稲作などの技術は、長い時間をかけて大陸や朝鮮半島から少しずつ伝わったとみられており、ひとつの集団がまとめて持ち込んだと考える根拠は乏しいとされます。とはいえ、伝説は地域の文化として大切に受け継がれ、今も各地で徐福を記念する行事などが行われています。

ちなみに、徐福伝説の残る和歌山県新宮市では、徐福が探し求めた不老不死の薬は、クスノキ科の植物「天台烏薬」だったと言い伝えられています。実際に薬草として使われてきた植物で、今では地元の特産品としてお茶などにも加工されているそうです。

さて、あなたはどちらを信じますか。この噂、誰かに話したくなったら